遊水池

地下一階です。思索が蛇行し氾濫して生まれた水溜まりを、少しずつ文字にしていきます。ひとつよしなに。

藤(2025/4/28)

カフェのレジで5000円札を出す時に、裏面の藤の絵がちらりと見えた。少し前に散歩をした時に見かけた、一房の藤の花が脳裏に蘇った。

 

路地裏のブロック塀越しに目に飛び込んできたあでやかな紫。あれはまだ4月の中頃で、藤が咲くには少し早い気がした。一緒にいた友人が、昔よく見ていた藤棚の話をしてくれた。同じく早咲きの藤だったそうだ。

 

やや殺風景な民家の外壁に儚げに揺れる花房。

その姿に各々の記憶が連なる。

友人が路地裏の一房の藤からかつて親しんでいた藤棚を思い出したように、私もまた、紙幣の藤から路地裏の藤を思い出した。

つるが絡まるかのごとくイメージが連鎖し、花を咲かせている。

こうして四季折々の花は人々の記憶の中に根を張るのだろうか。

 

 

灯火

大人になるにつれ、自分が自由に使える時間が減っている気がする。社会生活にはさまざまなしがらみがあり、思い立ったらすぐ行動、というのが出来ないことがある。生来ひどい先延ばし癖があり、半分くらいは自業自得なのだが、それにしても興味や関心をすぐ実行に移せないことがこんなにフラストレーションになるとは思ってもみなかった。

 

興味や関心には鮮度がある。「いま、どうしても気になる」といった切実さがある。それらが自分を突き動かし、何かを追い求める時の必然性になっていくのだと思う。

 

一方で、探究に期限は無い。むしろ何十年もの時間をかけないと知は積み重ねられない。

私たちは何かを掴むにはまだ若い。ものを知らないことを恥じるのすら恥ずかしいくらいには青い。

 

社会は目まぐるしく回り、若さ、新しさ、数多の情報の中でぱっと目を引く輝きが持て囃される時代になった。情報もまた鮮度を持つ。多くの人々から求められた果実も、食べごろを過ぎれば賞味されなくなる。そこには何が残るだろう。

 

刹那的なきらめきより、絶えず輝く灯火を。

若き天才より、老木の如き賢人に。

 

人生は儚く短い。しかしそれは生き急ぐ理由にはならない。

まだ見ぬ境地が、いつか迎える爛熟が、私たちを待っている。

14年

2011年3月。

寒い校庭で母の迎えを待ったこと。

マンションのエントランスに身を寄せ合ってみんなでラジオを聞いたこと。

何時間も経って、父が勤務先から歩いて帰ってきたこと。

非常食のダンボールを開けたら全部期限が切れていて、作りかけの、中のほうが生焼けのハンバーグを食べたこと。

電力が復旧し、テレビを付けた時に目の当たりにした様々な光景。

計画停電で薄暗い家の中に差し込む真昼の陽光。

 

今日は、断片的になってしまったあの頃の記憶を呼び覚ましていた。

 

2015年、中学3年生の夏。

家族旅行で岩手県を訪れた。

安全圏にいた自分が、語り部の方のお話や震災遺構をどのように受け止めたら良いのか分からなかった。おそらく親は「復興の支援をしたい」「震災のことにきちんと向き合いたい」とこの旅行を計画したようだが、それが偽善に思えてならなかった。

 

2024年、8月。

約10年ぶりに岩手県宮古市を訪れた。

青く穏やかな海。爽やかな空。

以下の文章は旅行の手記からいくつかの断片を抜粋したものだ。

8/7

バスの車窓から見える町並みは真新しくて綺麗で、その背景を思うと苦い気分になる。宮古は海と山が近く、高台に行けば行くほど古い家屋が多くなるのが見てとれた。

新しい場所には必ず津波の際の避難場所への案内(高台まで〇〇m)の看板がある。

 

浄土ヶ浜の)浜辺の隅にひっそりと二つの記念碑が建っていた。明治の三陸海嘯のものとチリ地震のもの。この地が幾度も津波の被害に遭いながら、それでも海と共に生きてきたことを思い起こさせる。

 

8/8

午後は宮古市市民交流センター(宮古市庁舎)内の防災プラザへ。展示スペースは決して大きくないものの、情報が凝縮されたコーナーだった。市内の被害状況や各地区の復興への道のり、次世代への復興教育に関する展示を見た。

やはり印象的だったのが、2011年以前も幾度となく津波の被害に遭ってきた歴史があること、そしてその教訓があったにも関わらず甚大な被害が出たこと。防潮堤を軽々と超える津波に改めて恐ろしさを感じた。自然災害は人のあずかり知るところを超える。

その上で、ハードとソフト両面の対策が必要、というのはとても説得力があったし、復興教育にてそれが実践されることが伝わってきた。

次の災害に備える力、いざという時に対応できる力を次世代につけさせねば、という強い使命感が宿っている。

画像資料を閲覧できるコーナーでは、初日の夜に歩いた閉伊川河口付近やバスから見えた築地・愛宕地区のぴかぴかの町が、震災当時は一面がれきに覆われていたことに気がついた。

 

8/9

岩泉町を出た後、途中田老地区に寄り、たろう観光ホテルや真新しい防潮堤、三王岩などを見た。昔来たときに車からホテルを見たのを覚えている。

遺構として残すこと、それ以外の建物は再建せず高台に集団移転すること……それぞれに賛否両論があったようだが、最終的には話がまとまってこの形に落ちついたらしい。防潮堤は世界一の高さだとか。全く海の気配を感じさせないコンクリートの壁。開口部を抜けると小さな港の風景があった。昭和、明治、そして東日本大震災と3つの津波の高さを表したものが給水塔のようなものの壁に描かれており、東日本(大震災)のときはこれまでを遥かに上回る高さの津波が押し寄せたことがわかる。三王岩展望台から見た深い青からは想像がつかない。波が激しく岩に砕け荒れているように見えたが、穏やかなほうらしい。

きっと地元の方々は私よりもずっと海のことを知っていて海と共に生きてきて、それでも予測のつかない規模だったのだろう。

 

旅のあいだ毎晩必死にノートに書き留めていたこれらの断片も、何かの形でまとめたいと思いつつ、自身の中で消化するのに半年かかってしまった。

 

2025年3月11日。

未だに、あの震災について自分が何かを語って良いのか分からない。

こうして文章にまとめたのも初めてで、言語化したり他人に見せたりすることにまだ葛藤がある。

今日は黙祷を捧げられなかったことを夜になって思い出し、14年の月日に思いを巡らせているうちに、何かに突き動かされるようにPCに向かっていた。これは私のエゴだ。欺瞞かもしれない。

それでも、と思ってしまう自分がいる。

 

気づけば日付も変わってしまった。

2011年3月11日から今日まで、日々は連なっている。

決して「あの日」だけのことではない。

あの日からのことを忘れないために、何ができるだろうか。

 

 

月に向かって

近頃、日が暮れると窓に何かが当たる音がする。

台風の影響で雨が降ったり止んだりしていたのでそれかと思ったが、どうも様子がおかしい。この時期にあられでもあるまいし、と頭をひねったところで気がついた。

あ、カナブンか。

 

室内から漏れる灯りに向かって寄ってきては、窓にぶつかっていく。部屋の電灯の中で虫がバチバチ音を立てて暴れ回るのと同じ。カナブンは月明かりを目安として方向感覚を保つ習性があり、人工の灯りを月と勘違いして飛んでしまうと言われているそうだ。方位磁針の使い方は心得ているのに、方位磁針そのものを取り違えてしまったあまりに最悪の結果を招いているらしい。

スリードをしてしまったな、と申し訳なく思いつつ部屋の電気を消した。

 

月、太陽、星……天体は古来より私たち人間の指針にもなってきた。月や太陽の動きを元に暦を作ったり、北極星を目印に航海したり。そうした大昔の人々の知恵を垣間見るのが幼い頃から好きで、今も博物館には何かと足を運んでしまう。

今年の3月に訪れた大阪の国立民族学博物館(通称:民博)は、そんな私にとっては天国のような場所で、世界中のあらゆる地域の歴史、文化がずらりと並んだ展示品とともに解説されていてとても興味深かった。地域展・通文化展からなる常設展の最初の一部屋目で取り上げられているのがオセアニアの島々で、大きなカヌーをはじめ、海とともにある暮らしが伺い知れるものがたくさん見られる。(中には抗争で倒した相手を食べる人肉食用のフォークもあった。不思議な文化。)

展示されているカヌーが大きな帆に風を受けて海上を進むのを想像すると、それだけで心が踊る。ポリネシアの航海術では、昼は太陽や波、風の角度、夜は星座から自分たちのいる位置を正確に割り出して帆走していく。ほんの200年前まではこの船で数千キロを移動していたそうだ。現代の東京で網のように張り巡らされたメトロの恩恵をたっぷり受けて生活している身からすると信じられない。そもそも、ここ日本も島国ではあるはずなのだけれど、どうも暮らしから海が遠い。

 

時折、もし、わたしが現代の日本に生まれていなかったら、ということを考える。オセアニアの小さな島に生まれていたら。にぎやかな市場の商人の子どもだったら。砂漠の真ん中の集落で生活していたら。ものすごく寒い地域で毛皮にくるまって暮らしていたら。これはきっと若さゆえなのだろうけど、なんとなく、どこの時代のどこの地域に生まれても、それなりに楽しくやっていけるような気がしてしまう。

 

窓に向かって飛んできていたカナブンたちは、果たしてどれだけの切実さを持っていたんだろうか。明かりに向かう強いエネルギーの元かと思いきや、案外ふらりとその方向を目指してきていたやつもいるのかもしれない。私がカナブンに生まれていたら絶対後者。当たりだと思って来た方向で見事に頭をぶつけ、痛いなあと思いつつ何回も同じドジをやってしまう。そういえば、オセアニアの人々の中にはうっかり航路を間違える人はいなかったのだろうか。ちょっと星を読み違えて仲間に小突かれたり、結構やばいかも、みたいな状況に陥った人、一人や二人では無いだろうな。歴史に残るのは「正解」ばかりだけど、どこかでこぼれ落ちてしまったかもしれないうっかりさんたちにも、たまには思いを馳せたい。

 

 

 

 

 

 

 

ぐうたらの身体論

西洋は立っている文化、日本は地べたに座っている文化、という話を時折目にするけど、ここのところ私は毎日床の上でゴロゴロしているので人間未満なのかもしれない。身体と床の接点から「地」を味わう安心感たるや、何にも変え難いものである。

そういえば電気を扱う時は接地(アース)を回路に組み込んで安定を図るし、人間も地面から何かしらのエネルギーを得ているに違いない。寝転んでいると、どうも怠慢のための口実だけはすらすらと出てきてしまっていけない。

ちなみに私の部屋は建物の2階で地面からは少し距離があるのだが、水平面の上に身体が乗っているというだけでそこを「地」だと錯覚してしまうのだから、人間とは愚かでめでたい生物だ。

時折顔を見せる、よく分からない虫や蜘蛛といった小さなシェアメイトたちはそこのところどう感じているのだろう。いつかお聞かせ願いたいものである。

うつ伏せになった時の視野は狭くて、垂直方向は床と壁の境から数センチメートル上までしか見えない。なるほど、四つ足で身体を支えて起こさなければいけないわけだ。赤ん坊はこうして地面を這いはじめ、やがて立ち上がって世界の広さを目の当たりにするんだな、と気がつく。とうの私は無論起き上がる気力などなく、寝そべったまま思考を遊ばせるのだが。齢二十余でこれでは先の人生が思いやられる。

 

 

話は変わるが、数ヶ月前、とある踊りの映像を観て、その佇まいの異様さに度肝を抜かれた。

舞台上の踊り手は弱々しく身体を折り曲げ、緊張と緩和をじわじわと繰り返す。夏が来る前に土から掘り返された幼虫の姿が頭をよぎった。

ゆるやかに死へと向かう痛み、病に冒されてもなお生を保つ存在の哀愁と薄気味悪さと仄暗い薫りにすっかり魅入られ、以来私は彼の踊りを追っている。

 

踊り手の名は、土方巽暗黒舞踏の祖である。

故郷・秋田の雪国の農村の暮らしにルーツを持つ手足を縮めた形、特にがに股の姿勢を基本とし、東北の厳しい風土や傷病者、女や子供といった弱者を表現した。

土方曰く「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」。

舞踏において「立つ」ことは「崩れる」ことだそうだ。崩れる寸前でぎりぎり形を保ってその場に在る。バレエのような手足をすっと伸ばして立つ西洋の踊りとは、身体の扱いが根本から異なっている。

暗黒舞踏は1980年代以降ヨーロッパをはじめとした世界各地に衝撃を与え、「ブトー Butoh」として広く知られることとなった。

 

部屋でなんとなく寝転ぶ。食事のために席に着く。本に夢中になっていると、どうも猫背になってしまう。

日常のふとした場面で、我々は無作為に身体を空間に置き、かたちを変化させている。その置き方、すなわち身体の有りようは文化や個人の生活習慣によって異なってくる。

 

さて、画面の向こうのあなたは、いま、この記事をどのような姿勢でお読みになられているのでしょう。

すっと背筋を伸ばしてPCと対峙しているのか、スマホを握りしめて目を凝らしているのか、はたまた私と同じように寝転んでいるのか。こういう何気ない一葉を読み漁る時の姿勢にも、各々の癖が顕れることでしょう。

 

ぐうたらの同志の皆様は、そろそろ眠たくなってくる頃でしょうから、今日のところはこれにてお終い。

それではまた。