遊水池

地下一階です。思索が蛇行し氾濫して生まれた水溜まりを、少しずつ文字にしていきます。ひとつよしなに。

月に向かって

近頃、日が暮れると窓に何かが当たる音がする。

台風の影響で雨が降ったり止んだりしていたのでそれかと思ったが、どうも様子がおかしい。あられでもあるまいし、と頭をひねったところで気がついた。

カナブンだ!

 

室内から漏れる灯りに向かって寄ってきては、窓にぶつかっていく。部屋の電灯の中で虫がバチバチ音を立てて暴れ回るのと同じ。カナブンは月明かりを目安として方向感覚を保つ習性があり、人工の灯りを月と勘違いして飛んでしまうと言われている。方位磁針の使い方は心得ているのに、方位磁針そのものを取り違えてしまったあまりに最悪の結果を招いているらしい。

スリードをしてしまったな、と申し訳なく思いつつ部屋の電気を消した。

 

月、太陽、星……天体は古来より私たち人間の指針にもなってきた。月や太陽の動きを元に暦を作ったり、北極星を目印に航海したり。そうした大昔の人々の知恵を垣間見るのが幼い頃から好きで、今も博物館には何かと足を運んでしまう。

今年の3月に訪れた大阪の国立民族学博物館(通称:民博)は、そんな私にとっては天国のような場所で、世界中のあらゆる地域の歴史、文化がずらりと並んだ展示品とともに解説されていてとても興味深かった。地域展・通文化展からなる常設展の最初の一部屋目で取り上げられているのがオセアニアの島々で、大きなカヌーをはじめ、海とともにある暮らしが伺い知れるものがたくさん見られる。(中には抗争で倒した相手を食べる人肉食用のフォークもあった。不思議な文化。)

展示されているカヌーが大きな帆に風を受けて海上を進むのを想像すると、それだけで心が踊る。ポリネシアの航海術では、昼は太陽や波、風の角度、夜は星座から自分たちのいる位置を正確に割り出して帆走していく。ほんの200年前まではこの船で数千キロを移動していたそうだ。現代の東京で網のように張り巡らされたメトロの恩恵をたっぷり受けて生活している身からすると信じられない。そもそも、ここ日本も島国ではあるはずなのだけれど、どうも暮らしから海が遠い。

 

時折、もし、わたしが現代の日本に生まれていなかったら、ということを考える。オセアニアの小さな島に生まれていたら。東南アジアの市場の商人の子どもだったら。砂漠の真ん中の集落で生活していたら。ものすごく寒い地域で毛皮にくるまって暮らしていたら。これはきっと若さゆえなのだろうけど、なんとなく、どこの時代のどこの地域に生まれても、それなりに楽しくやっていけるような気がしてしまう。

 

窓に向かって飛んできていたカナブンたちは、果たしてどれだけの切実さを持っていたんだろうか。明かりに向かう強いエネルギーの元かと思いきや、案外ふらりとその方向を目指してきていたやつもいるのかもしれない。私がカナブンに生まれていたら絶対後者。当たりだと思って来た方向で見事に頭をぶつけ、痛いなあと思いつつ何回も同じドジをやってしまう。そういえば、オセアニアの人々の中にはうっかり航路を間違える人はいなかったのだろうか。ちょっと星を読み違えて仲間に小突かれたり、結構やばいかも、みたいな状況に陥った人、一人や二人では無いだろうな。歴史に残るのは「正解」ばかりだけど、どこかでこぼれ落ちてしまったかもしれないうっかりさんたちにも、たまには思いを馳せたい。

 

 

 

 

 

 

 

ぐうたらの身体論

西洋は立っている文化、日本は地べたに座っている文化、という話を時折目にするけど、ここのところ私は毎日床の上でゴロゴロしているので人間未満なのかもしれない。身体と床の接点から「地」を味わう安心感たるや、何にも変え難いものである。

そういえば電気を扱う時は接地(アース)を回路に組み込んで安定を図るし、人間も地面から何かしらのエネルギーを得ているに違いない。寝転んでいると、どうも怠慢のための口実だけはすらすらと出てきてしまっていけない。

ちなみに私の部屋は建物の2階で地面からは少し距離があるのだが、水平面の上に身体が乗っているというだけでそこを「地」だと錯覚してしまうのだから、人間とは愚かでめでたい生物だ。

時折顔を見せる、よく分からない虫や蜘蛛といった小さなシェアメイトたちはそこのところどう感じているのだろう。いつかお聞かせ願いたいものである。

うつ伏せになった時の視野は狭くて、垂直方向は床と壁の境から数センチメートル上までしか見えない。なるほど、四つ足で身体を支えて起こさなければいけないわけだ。赤ん坊はこうして地面を這いはじめ、やがて立ち上がって世界の広さを目の当たりにするんだな、と気がつく。とうの私は無論起き上がる気力などなく、寝そべったまま思考を遊ばせるのだが。齢二十余でこれでは先の人生が思いやられる。

 

 

話は変わるが、数ヶ月前、とある踊りの映像を観て、その佇まいの異様さに度肝を抜かれた。

舞台上の踊り手は弱々しく身体を折り曲げ、緊張と緩和をじわじわと繰り返す。夏が来る前に土から掘り返された幼虫の姿が頭をよぎった。

ゆるやかに死へと向かう痛み、病に冒されてもなお生を保つ存在の哀愁と薄気味悪さと仄暗い薫りにすっかり魅入られ、以来私は彼の踊りを追っている。

 

踊り手の名は、土方巽暗黒舞踏の祖である。

故郷・秋田の雪国の農村の暮らしにルーツを持つ手足を縮めた形、特にがに股の姿勢を基本とし、東北の厳しい風土や傷病者、女や子供といった弱者を表現した。

土方曰く「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」。

舞踏において「立つ」ことは「崩れる」ことだそうだ。崩れる寸前でぎりぎり形を保ってその場に在る。バレエのような手足をすっと伸ばして立つ西洋の踊りとは、身体の扱いが根本から異なっている。

暗黒舞踏は1980年代以降ヨーロッパをはじめとした世界各地に衝撃を与え、「ブトー Butoh」として広く知られることとなった。

 

部屋でなんとなく寝転ぶ。食事のために席に着く。本に夢中になっていると、どうも猫背になってしまう。

日常のふとした場面で、我々は無作為に身体を空間に置き、かたちを変化させている。その置き方、すなわち身体の有りようは文化や個人の生活習慣によって異なってくる。

 

さて、画面の向こうのあなたは、いま、この記事をどのような姿勢でお読みになられているのでしょう。

すっと背筋を伸ばしてPCと対峙しているのか、スマホを握りしめて目を凝らしているのか、はたまた私と同じように寝転んでいるのか。こういう何気ない一葉を読み漁る時の姿勢にも、各々の癖が顕れることでしょう。

 

ぐうたらの同志の皆様は、そろそろ眠たくなってくる頃でしょうから、今日のところはこれにてお終い。

それではまた。